窓から差し込む月の光だけを頼りに、随分先にベッドで寝静まったを起こさないように潜り込み、彼女を腕に閉じ込め目をつむる。
そしての規則的な呼吸を子守唄に眠りにつく。
そんな当たり前の光景は、珍しくも彼女の口から小さくこぼれた寝言によって、一変する事になる。
「サリヴァン…」
瞑った目を思わず開いた。それは知らない男の名前だった。当然ハートの海賊団にそのような名前のクルーはいなければ、と自分の共通の知人にもそのような名前の人間はいない。
ならば個人の知り合いなのだろう。寝言にまで出るほどだ。恐らく親しい間柄だったことは容易に想像できる。
彼女の過去は膨大だ。当たり前の如く把握していないことの方が多いだろう。
しかし、だからなんだというのだ。
膨大だから、把握していないから。そんなことがの口から聞き慣れぬ男性名が零れた事に不満を覚えない理由にはならない。
彼女に覆いかぶさり、こちらの気など知りもせず懇々と眠り続けるの首に、手をかける。
力を込めればすぐに折れそうなほど、細い首だった。
「それじゃあ私は殺せないわ」
「起きてたのか」
「首に手をかけられれば誰でも起きるわよ」
はそっと手を解かせると、肩を押し起き上がらせつつ彼女自身も上体を上げた。
首をしめかけた、険しい顔つきの相手を目の前にしても、は艶然とした微笑みを浮かべている。
しかしふっと困ったように眉を八の字にし、彼女の伸ばされた腕にフワリと抱きしめられた。
「殺されたって良いと思ってるけれど、ラフテルに辿り着いてからにして下さる?」
「どうでもいい時にはよくキレるくせに、こういう時は落ち着いたもんだな」
「怒られたかったのかしら?」
「いいや…」
密着させた身体を少し離し、の顎を軽く掴んで顔を上げさせる。
相変わらず微笑んでいる彼女を見下ろせど、はただ黙ってこちらの様子を伺い、口を開くのを待っている。
「サリヴァン」
「!」
目を見開き赤ら様に驚いた顔を見せた彼女は、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、まだ顎を掴んでいる手を取り払い顔を逸らした。
「身に覚えがあるようだな。誰だ」
「寝言でも言ってしまったのかしら?」
「あぁ」
「ちょうど夢を見ていたし、そうでしょうね…」
「だから、誰だと聞いている」
「嫉妬するならお門違いでしてよ?…いえ、知らない事がもどかしいだけなのかしら?」
「御託はいい」
「…………」
押し黙ってしまったは、俯いき額に手を当て、諦めたように深々とため息を吐いた。
そして蚊の鳴くような声で呟いた。
「五、六百年くらい前、一番始めに吸血した相手」
「…!」
生きるために他人の血が必要である限り、彼女が吸血を行うのは当然ではあるが、その言葉は衝撃だった。
吸血にともなう愉悦と快楽は、まさに性交渉のそれと同じだ。
それを、初めて行なった相手。
自分ではない事は初めから分かり切っていても、自分が生きている時代とはかけ離れていても、見ず知らずのその相手に怒りを覚えずにはいられなかった。
思わず握りしめた拳に、彼女の手がそっと触れる。
その手は酷く震えていた。
「…?」
「殺す気だった」
「!」
「無理だったけど…ね。だから言ったでしょう?嫉妬するならお門違いって」
震えの少し収まった手で、両手を取ったは、こんどは自らその首に手をかけさせた。
力を込めれば直ぐに彼女の気道を塞げる位置だった。
「さぁ、誰かは説明したわ。それでも許せなくて?」
「………いいや」
「ふふ、でも不服そうね」
不服なのも当然だ。いくら目的が目的であろうとも、そこ行為に伴うものに変わりはないのだ。
自分のものであるはずの彼女の、自分のものでなかった長すぎる期間を考えるのは、やはり堪えるものがある。
首にかけさせるの手を取り、彼女の膝の上で、未だ震えるその手を包み込むように握りしめた。
堪えるものがあろうが、それでもこの誰にも不安を見せまいと奮闘する微かに震える手を、守ることができるのは、過去を遡れど、この先どれだけ遠くの、自分の死した後の未来でも、きっと自分だけだ。
そう自らに思い込ませ、これからも彼女の隣にいるのだろう。
「おれ以外の男の血を吸うな」
「言われなくても。不味いもの」
「不本意な吸血もするんじゃねえ」
「…!」
「命令だ」
「……貴方は、本当に優しいわね」
そう言って泣きそうな微笑みを見せた彼女に、またフワリと抱きしめられた。
震えはもう止まっていた。
応える想いに応える強さを
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