「診察室に来たれ」
たったそれだけが書かれた張り紙が、目が覚めたばかりのローの目に入った。というのもその張り紙は天井に貼られていたのである。
筆跡からしても、やる事の意味の分からなさからも、彼は即座にの仕業かと理解した。
起きたばかりの身体を解す為に伸びをしてからベッドを降りる。
とりあえず彼女の戯れに付き合ってやるか、とローは診察室へと足を向けた。
*
「あ、キャプテン。おはよう!」
船長室からたいして離れていない診察室に足を運べば、そこにはの姿はなく、白い毛皮の上にオレンジのツナギを来た熊、ベポが居るだけだった。
「ベポ、はここに来ていたか?」
「いたよ。キャプテンに伝言預かってるよ」
「なんだ」
「操舵室にきたれ、だって」
「は…」
また移動か。とうんざりして額に手を当てる。放っておいてまた眠ろうかという考えが頭をよぎった時、ベポがローへと声をかける。
「とっても楽しそう、ていうか嬉しそうだったよ。どうしたんだろ?」
それを聞き、そんな彼女を放っておくのは流石のローも躊躇われた。それに何があったのか気にもなる。と考えを改め、操舵室へと向かうため、診察室を後にした。
*
「お、船長。はよっす!」
操舵室に足を運べば、そこに居たのは進路を確認する、キャスケット帽をかぶり、室内にもかかわらず目を全く見せないほどの真っ黒なサングラスをかけた、シャチの姿のみがそこにはあった。
「やっぱりこういう展開か…」
「どういう展開すか?」
「いや、こっちの話だ。は来たか?」
「きたっすよ。船長が来たら、食堂に来たれ。って言ってくれって言ってました」
次は食堂か、と呟きながら入ったばかりの操舵室を早々に後にした。
残されたシャチは訳が分からないといったふうに、頭上にクエスチョンマークを浮かべた。
*
食堂の扉を開けば、案の定彼女の姿はなかった。
「船長、おはようございます」
「あぁ。ペンギン、はここに来たか?」
食堂には数人朝食をとっている船員がいたが、が伝言を託すなら彼であろうと踏み、問いかけた。
そして予想通りに答えは返って来る。
「甲板に来たれ。だそうで。あと、これで最後、とも言ってました」
「ようやく終わりか…」
「何かゲームでも?」
「あっちが一方的にな」
会話も早々に切り上げ、今度こそ最後と思われる甲板へと早足に歩を進めた。
*
「ここまでご苦労様でした。因みにご褒美はありません」
甲板へと続く扉には、の筆跡で書いてある張り紙が、ちょうどローの身長に合わせた高さにあった。
まさか本当にこの張り紙で終わりじゃないだろうなと、疑いつつ、彼は扉を開いた。
眩しい朝日が降り注ぐ甲板には、真っ黒な服と帽子、切れ長の大きな目にはアメジストの瞳が携えられ、嫋やかなうねりのない銀糸の様な穢れを知らない美しい髪、女性特有のおうとつのあるプロポーションは完璧といった、普段通りのの姿がそこにはあった。
「よく飽きずにここまで来てくれたわね。あれがと」
「それで、ここまでおれを振り回して何がしたかった?」
はニヤリと含みのある笑みを浮かべると、急にローに向かって突進するかのごとく走りだした。
ギョッとして目を見開いたローは即座に止めようと彼女に向かって走り出す。
今は朝日が出ている。のビロードのピクチャーハットには、外観を損ねるという理由で紐がついていない。そして彼女は、尋常ではないほどに足が早い。
風の抵抗でフワリとの帽子が宙に舞った。
「…っ!」
を抱きとめたローはそのまま、彼女を自らの影に隠すように抱え込んだ。出来るだけ彼女に日光を当てないようにしゃがみ込みさらに腕に力を込める。
「お前一体何を考えて…!!……どこも焼けてねぇか?痛みは?」
「ふふ、大丈夫よ」
「このまま動けねぇぞ。どうする気だ」
「焦りすぎでしてよ。大丈夫、離して」
「何言って…」
力をこめて抱きしめていたにも関わらず、はスルリとローの腕から抜け出した。
条件反射でローは彼女の腕を掴んだが、危惧した事態が起こる気配はない。
「ふふふ。驚いたでしょう」
「…どういう事だ」
「人間に戻りましたわ!」
「下らねえ冗談はいい」
「ノリが悪いわね…。今見えてるの、朝日じゃないらしいわ」
は掴まれた腕を引っ張りローを立たせ、今度は逆に彼の腕を掴み船首へと歩き出す。途中落ちた帽子を拾うのも忘れずに。
「この辺り特有の特殊な気候らしいわ。詳しいことはよく知らないけど。兎に角この光は、明る過ぎる月みたい」
「ありえねぇだろ…」
「偉大なる航路でそれを言ってもねぇ…でもほら見て、沈んでるわ。こんなに明るいからみんな朝だって思い込んでたでしょう?だから何度か皆の所に足を運んでもらって時間錯誤させたのよ」
皆時計見る習慣ないのね、それとも止まってると思ったのかしら。そう言ってからはローからほんの少し離れた所で、クルクルと回り出す。
「まるで太陽の下みたい。ふふ、まるで人間のようでしょう?」
「お前は嬉しいかもしれねえが、おれには心臓に悪いだけだ」
「永住するならこんなとこがいいわ」
ローの話をほとんど耳にいれずそれは楽しそうに踊るように甲板を行ったり来たりする。そんな彼女を見て、ローも感化されたように邪念のない笑みを少し浮かべた。
弄ぶ光の下で
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