「満月の夜は近づいてはいけないわ」
ローが私の言いつけを初めて破ったのは、ハートの海賊団を結成して初めての満月の夜だった。
宵闇の主たる吸血鬼は、満月にその本来の姿を隠しきれず露わにせざるを得ない。蝙蝠のような皮膜の翼、隠しきれない八重歯、ガーネットを思わせる真紅の瞳。ベースは人間である私とてそれは例外ではない。
元来人間である頃の私の人柄というものは、あまり人に対して怒りを簡単にぶつけるような、荒い気性をしはいなかった。はずである。あまりに昔の事で明確には覚えていないのだ。
つまり、傲慢で勝気、尚且つ力づくで押し切ろうとする性格というのは、吸血鬼になった事で後付けされたものである。
最近となってはむしろそちらの方が頻繁に顔を見せるのは、ここ数年の私の置かれた境遇が原因であろう。怒りに身を任せることでしか、自らの尊厳を守る術がまるでなかったのだ。
閑話休題。
話は戻り、満月に本性が露わになるという事は、人間である私が完全に隠れ、吸血鬼である気性の荒い私が全面に出てしまう。
つまり、何をするか分かったものではない。
現在の私は、吸血鬼の私が本能のまま傲慢に振る舞うのを、人間の私が理性的に諌めるという、いわば二重人格が一度に表に出ている状態、と言うべきだろうか。この辺りは自分でも上手く把握しきれていない。
兎に角、その理性とも言える部分が欠如した私は一体人間に何をする?
聞くまでもなく分かり切ったことである。
毎月満月の夜には、私室の前に十字架のネックレスを入口のドアノブに引っ掛け、部屋の壁に触れなくする事で、事なきをえていた。
しかしあの日の夜のローはあろう事か、昔からの言いつけを破り、ドアノブの十字架はそのままに、私の私室へと足を踏み入れたのだった。
「自分から餌になろうなんて関心するわ」
「そりゃどうも」
「拒む気もないのね」
ドア付近に佇む彼の普段と全く変わらぬその態度に思わず苛立だしげな笑みが出た上に、米神がピクリと動いた。 青筋が出ただろうが小さな窓から僅かに入る月明かりでは、誰の目にも入らなかっただろう。
再三危ないと教え込んだ割には、普段持ち歩いている長刀さえも携えていなかった。
舐められているのか?そう思えば更に苛立ちは募り、目の前の人間が昔から可愛がって来た青年であろう事を忘れ、ただの食料の入れ物に思えてくる。喉が疼くのを感じた。
「それで、わざわざ餌になりに来たわけでもないしょう?何の用?」
「なくなったんだよ、理由が」
「勿体ぶるんじゃないわよ」
「お前の言葉の言いなりになる理由がねぇんだ」
「あるわよ。私に嫌われたくはないでしょう?」
「従わねぇ奴が嫌いってわけでもねぇだろ」
それもそうだと、心中同意した。
人の上に立つのが好きというわけでもない。それに、吸血鬼の能力の一つである魅了を使えば、否応無しに相手を服従させる事ができる。
今此処でそれを使わないのは、なんだかんだ言っても根本的な部分で、私は彼に甘いのだろう。どれだけ腹が立とうが齧りつかないのがいい証拠だ。
吸血鬼の本性というものも案外温い事に自嘲じみた苦笑を少しもらした。
「それはいいとして、此処に居てはいけない理由もなければ、いる理由もないみたいね。ならばそろそろ出て行きなさいな。何だかんだ言っても私は貴方を襲いたくはない様よ」
「食料が欲しかったんじゃねぇのか?」
「今良くても明日陽が登れば、後悔するのが目に見えてる。満月だろうと貴方への親心が消えるわけではないみたいね」
思ったままそう口にすれば、ローは苛立つ様子を隠そうともせず、鋭い目付きで私を見据えた。薄暗い部屋の中でも夜目のきく私の紅の瞳はそれをはっきりと写していた。
いつも以上に苛立だしげなそれに、力では全く負ける気がしない割には、背中に冷や汗が伝うのを感じた。
流石に私も鈍くはない。何が彼の地雷になったかは良くわかる。しかしここで否定するものわざとらしいかと、あえて黙り彼の同行を伺った。
「そんなもの消えてしまえ」
呻くように呟くと、一歩また一歩と、ベッドに座る私にへと近づいてくる。また喉が疼いた気がした。
「欲しいモノはそれじゃねぇ」
「分かってるわ」
「今はおれがお前の庇護者だ。いつまで保護者を気取る気だ」
「それ以上近づけば捕食者に変わるわよ」
私の言葉に一度足を止めたローだったが、すぐにまた足を踏み出した。
「いっそ、その方がマシだ」
そう言い終わらないうちにローは早足で私に近づくと、力強く掻き抱いた。
触れる距離にある新鮮な血の匂いに、息を飲んだ。
「どんな理由でもいい。俺を求めろ」
もう私には、ローの声がほとんど頭に入って来てはいなかった。
ただ本能が求めるままに、目の前にある首筋に自分の八重歯をあてがった。
*
翌日の朝はそれはもう後悔の嵐だった。
今だベッドの私の隣で眠っている彼の整った顔は、死んでいるのかと錯覚するほど血の気を失っている。自分から来たのだから自業自得だと思うと同時に、若人を誑かした悪女のようだと自らを嫌悪する思いが交差する。思わず長いため息がでた。
正直な話し、将来彼の子どもを産む約束をしたときは、ローは親愛と恋情を勘違いしているとばかり思っていた。海を出て世界を知れば、変わりゆく想いであると。
しかし、吸血鬼に血を吸われた者は、その強すぎる快感と、否応無しにかかる暗示に、もう一度吸血鬼行為を、吸血鬼を求めずにはいられなくなる。時間が経てば薄れるものの、次の満月にローがまた強行手段に出ないかは甚だ疑問である。
つまり、心情がたとえ勘違いだったとして、ローはもう私から逃げられない。
だからこそ今まで彼の血は吸わなかったのだし、満月の夜は近づいて欲しくなかったのだ。
縛られるのが嫌いにもかかわらず、精神のみならず肉体まで私に囚われてどうする。そう思えばまたしても長いため息が出た。
それと、一つ分かった事がある。
吸血鬼とは性別に関わらず女性の血を好む傾向にあり、男性の血をあまり美味しいと思う事はない。
だが、ローの血は、今まで飲んだどんな美女の血よりも、極上に甘美なものだった。恋する相手の血こそ最高の美酒などというのは、余りにも有名な話だ。
もしかすると、親愛と恋情を勘違いしていたのは、私の方だったのかもしれない。
自覚してしまえば、いつまでも子どもだと思いこんでいた彼が、立派な青年に見えてしまうのだから不思議だ。
規則的に呼吸をするローの白頬にそっと手を添えた。
「結局、今回得したのは私だけね」
「何の話しだ」
独り言となるはずだった言葉に返事をした彼は、ゆっくりと瞼を開き、その瞳を私のそれと合わせた。
「あら、起こしたかしら?ごめんなさい。まだ寝ていて良くてよ」
「いや、起きる。それで、何の話だ」
やけに切羽詰まって見えるのは顔色のせいだろう。罪悪感は押し寄せてくるものの、
「秘密」
親心より恋心の方が優ったかもしれない事は、何だかしゃくだから教えてはあげなかった。
貴方に惚れる第一歩
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