見慣れない分厚い本を持ったローが私の部屋に現れたのは、ペンギンが去ってから数分もしないほどだった。怒っているという割には、迅速な対応に内心苦笑する。
顰め面で私を見下ろすその視線は、妙に熱い。勿論怒りを滲ませているという意味でである。
ローは無言のまま先ほどまでペンギンが座っていた椅子に腰かけると、ぶっきらぼうに問うた。
「なぜ怒っているか、分かるか?」
「開口一番がそれ?心当たりがありすぎていっそどれか分からないわ」
「………」
苛立ちを露わにした整った相貌は、なかなか迫力がある。
ただジッと見つめ返せば、さらに機嫌を損ねたのかフイと顏を逸らされた。
「悪かったと思ってるわ。貴方の話をろくに聞かずに立ち去ったこと、私の勝手で船に危険を及ぼしたこと、神父を一般人だからって油断してたこと」
「そんなことはどうだっていい」
「ならどれが、どうでもよくないのかしら?」
傷に害がないようゆっくりと起き上がった私は、ベッドの上に正座し、私に顔を合わせようとしないローの頬に手を添え、無理矢理に此方を向かせ目を合わせた。
「言ってごらんなさいな?いつまでも怒っていられるわけではないでしょう?」
「……子ども扱いすんじゃねぇ」
低く呟いたローは、急に椅子からたちあがり、頬に添えた私の手を引きベッドへと押し倒した。それでも背中の傷には負担がかからないように背中に手を添えてくるあたり流石と言うべきか、完全に怒り心頭というわけではないらしい。
どうやら私は彼にかける言葉をまた間違えたらしい。いや、この場合は言葉遣いだろうか。
押し倒された状態のまま、ジッと彼を見据える。
「ねぇロー、教えて頂戴」
「だから、何で分からねぇ…」
「自分の感情を伝えず分かってもらおうなんて、子供のする事でしてよ」
「………っ」
口をつむいでしまったローをただ見つめ、黙って彼の言葉を待つ。すると観念したように表情を歪ませると、ローは私の髪に顔を埋めた。
「……今回ほど、肝が冷えたことはねぇ」
少し間を開けて耳元で囁かれた、彼らしからぬひ弱な声は、その内容も相まって私を驚かせた。
私の首に顔をうずめ、問いに対する明確な答えは示さないままローは黙ってしまったが、もうそれだけで充分だった。じわじわと満たされる心に自然と私は微笑んでいた。
ここ数百年、された事がなかったから、分からなかっただけだった。
私は、ローに心配されていたのだ。
怒って悟して、それでも分からなければ呆れてしまう。実際私も心配させられた側ならそうするだろう。
しかし自分に向けられることがなかった感情なだけに、すっかり忘れてしまっていたのだ。
理解するのに随分時間を要してしまったが、私の願望は、ちゃんと叶っていた。
「ごめんなさい、心配かけて」
「もう二度とさせるな」
「それはどうかしら」
「………お前な」
「だって今凄く嬉しいのだもの」
堪えきれずクスクスと身体を揺らし笑ったが、ほんの少し痛んだ背中に、すぐさま不自然に止めてしまう。
それに気づきすぐに顔を上げたローは、医者の顔へと様変わりしていた。
「まだ痛むか?」
「気にするほどではなくてよ。でも、銀で傷つけられたというわりには、治るのが早いのはなぜかしら…?」
「あの花が原因だろうな」
先ほど私を押し倒した際に、床に落としてしまったであろう分厚い本を取り、いくつかある付箋の一つがついた一頁を開いて見せられる。
その頁には、あの花がどの様に吸血鬼に作用するか、その詳細が事細かに書かれていた。
「資料…ちゃっかり貰ってたのね…」
「これがあの島に留まった理由だ、当然だろ。あの花、悪魔の名花は、お前に対してのみ治癒力を発揮するらしい。…分かってりゃ採取したんだがな」
「…ん?あの花が悪魔の名花なの?私じゃなくて?」
「先にあの花が悪魔の名花と呼ばれていたようだ。それで、元であるお前もそう呼ばれるようになったらしい」
ローがその長い指で追う文字を目で追い、要点のみを読んでいたが、不意に目に入った、今はあまり関係のない説明を思わず音読する。
「私の治癒を最大限に行う時のみ、花粉が舞い散りながら発光する…」
「あぁ、お前が意識を失った後、随分光ってたな」
「まるで、銀の蛍のように…」
つまるところ、あの島の二つの言い伝えは元を辿れば私が元凶だったらしい。
気を失う前に垣間見たあの光は、やはり見間違いではなかったようだ。
そうなると、私たちはあの場所で、運命的かどうかはさておき再会し、そして銀の蛍を二人で見たということになる。
「悪魔の名花が恋の花、なんて皮肉なものね」
「何だそれは」
「いいえ、何でもなくってよ」
迷信を信じる質ではないが、それでも怪我をしてあの場で再会した事に意味を見出せるようで、あの島での約一日を、無駄な浪費だったとは思わずにすみそうだった。
ファイアフライとこいのはな