我を忘れるとはよく言ったものだ。
理性を失い、その間の事はまるでおぼえていない。まさにその瞬間は自分を見失ったのだ。
まるで今目が覚めたかの様に我に返り、目の前に広がる光景を頭が飲み込み始める。
私は押し倒した神父に跨り、ただ苦しめる事を目的として、私の腕力にしては随分軽い力で彼の首を締めていた。
首を締められた彼は苦渋に満ちた顔を私に向けている。
『ルーナ』と呼ばれ、思い出したくもないあの男、ドフラミンゴが脳をよぎり、形振り構わず切れてしまった。そしてこの状態に至った。神父の首にかけた手を離さず頭の片隅で理解する。
誰しも生きていれば許せない人の一人や二人はいるものだ。そして私のその最たる例は、今しがた脳を過った男、ドフラミンゴだ。
思い出せばまた無意識に、私は首を締める手に力をグッと加えていた。
「…!やめて…!」
その声にようやく思考の波から抜け出した私は、悲しげに眉を寄せる声の主であるルドルフをジッと見つめ、緩慢な動きで首から手を離した。
「…、教えてあげてもよくってよ。ルーナについて」
苦しげに咳き込みながら空気を吸い込む神父から返事はなかったが、話を進める。
「元々あの棺に書かれていた文字はもっと長いのよ。 ザ ラフテルーナ レストインピース。……ラフテルの女、安らかに眠る。ってね」
「…!?」
驚きのあまり目をこれでもかと見開いた神父は私を凝視する。
当然だろう。この時代に、まさかラフテル出身の者が、この世にいるとは思いもしないだろうから。
「名前じゃないのよ。あれは地名と性別を表しているだけ。それを何人もの人が勘違いした」
「………」
「何人もの人が、私をそう呼んで私を虐げ陥れた…!」
憎々しげにそう吐き捨て、彼らと同類のこの神父を、激昂を孕む眼差しで見下した。
「私をルーナと呼んだ者の事は永遠に忘れなくてよ。おめでとう、貴方は憧れの私の記憶に刻み込まれたわ。憎むべき相手として!」
「かわいそうに…」
「…なに?」
「軽率にもルーナと呼んだ事は謝ろう。…随分と酷い仕打ちを受けて来たんだね。もう、大丈夫だ。私がいる」
そう言って先ほどまで彼の首を締めていた私の手を取ろうとする。しかしその前に私は彼の上から飛びのいた。
神父は上半身を起き上がらせ、激昂する私とは真逆の冷静な目で、真っ直ぐに私を見つめた。
「命令」を使った後の依存にしても、幾らなんでも度が過ぎる。つい今しがた自分を殺そうとした者を常人ならば、憐れみ守るなどと言うだろうか。
湧き上がる思いは、ただただ気味の悪さだけだ。
本当に気味が悪い。いったい、ここまで人を狂わせる吸血鬼とは何なのか。それは私自身も分からない。知る由もない。
いったい、自分は何者なのだろう。
答えの出ない疑問が頭を過ったと同時だった。
ブゥン、と随分聞き慣れた奇妙な音共に現れた半球状の膜の中に、これもまた随分見慣れたスラリとした長身の男性の背中が目に入った。
彼の、ローのオペオペの実の能力。その一端で移動して来たようだ。
先ほどと同じく妙にタイミングの良い登場だ。さっきまで頭を締めていた不安がみるみるうちに消えて行く。
「ろ…」
彼の名を呼ぼうとして、途中で止め思わず目を見開いた。
というのもその瞬間、彼は珍しくも能力を使う事もなく、ただ物理的に回し蹴りを、神父のその顔に喰らわせたからだ。
身体を横投げされた様に吹っ飛んだ神父を、口を半開きにさせて唖然としつつその光景を眺める。
「…っ!ルドルフ!そいつを海に落とせ!」
かなりの距離を飛ぶほど頭を蹴られた割には、まだ意識を保っていたようだ。
神父に命令を受けたルドルフを見やれば、今にも泣きそうな面持ちで神父とローに交互に顔を向け、最後にわたしを見つめた。
「は神父さんを危ない目に合わせるし、神父さんもを危ない目に合わせる…。でも神父さんはといたい……。もうどうしたらいいか分からないよ!」
ついには泣き出してしまったルドルフは、その場に崩れ落ちる。
その痛々しい姿に、駆け寄ろうと一歩踏み出そうとする前に、ローが先に彼に歩み寄る。動き出した目の前の背中に足を踏み出すタイミングを逃してしまった。
そしてローはルドルフのそばに膝をつくと、またしても珍しくただ物理的に拳を握り、ルドルフの頭を叱りつけるように殴りつけた。
「人に答えを求めるな。自分で考えろ」