教会の周りは鬱蒼とした森に囲まれていた。月明かりだけが照らす真夜中の森は陰鬱な印象を見る者に与える。
森にいる、だけではこの島に来て一日二日の私に、いったいルドルフが何処にいるかなど検討もつかなかった。
いつ神父がわたしを追いかけて来るかは分からない。木の影に隠れつつゆっくりと足を進める。
自分が何処にいるのかさえ分からない状況だが、とりあえずは肌身離さず持ち歩いている、ローのビブルカードが指し示す方向へと、分からないながらでも進むしかない。取り上げられていなかったのが不幸中の幸いだった。
辺りを見渡せば、所々地割れしている箇所があるが、これくらいならば、直せばすぐに問題なくなるように見える。どれも苔むして草も生い茂っているからには、地盤沈下はそれなりに昔に起こったきりなのだろう。再発がしていないならばなおのことだ。
不可解に思っている最中、不意にガサガサ、と何かが草むらを通る音がする。
身体を屈め音のする方向を注意深く見つめれば、人影がぼんやりと遠くに見て取れた。
ビブルカードが指し示す方向ではない。子供の大きさでもない。ならばあの人影は今一番会いたくない人のものだろう。息を潜め屈めた身体をさらに小さく蹲る。背中の傷がズキズキと痛み寒気を覚えるが、今は構ってはいられない。
人影は此方に気づかない様子で、足音は遠ざかる。ほとんど聞こえなくなった所で、ようやくホッとかたの力を少し抜いた。
その瞬間だった。
「」
「…!」
後方から少し高い小さな声で名前を呼ばれ、何とか悲鳴は飲み込んだが、力を抜いたばかりの肩が跳ね上がる。
すぐさま振り返ればルドルフが、先ほど見た時にはなかった手足に打ち身や切傷を作り、私のすぐそばで屈んでいた。
衣服も多少破れてしまっているその様には、ただ声も出なかった。
「大丈夫?」
「………それは、私のセリフよ。大丈夫なの?」
「痛いけど、すぐ治るもん。大丈夫」
「そういうのは、大丈夫とは言わないのよ…」
きっと彼は、この状況を大丈夫とは言わないと、教わっていないのだ。
彼が人狼でなければ、頭を撫で抱きしめたいが、触れてしまえばきっと心配する気が失せてしまいそうだった。グッと拳を握りただ彼を見つめる。
「さっきまでここにいた海軍の人達、いなくなってるみたいだから、船の人呼んでこようか?」
「…、いいの?私が行ってしまっても」
「………うん」
うつむいてしまったルドルフの表情は伺えない。しかし隠した顔が悲痛な面持ちである事は、手に取るように分かる。
私がこの島に来る事がなければ、彼はこんな目に合わなかっただろう。神父の心中はどうあれ重宝されたに違いない。
来てしまったからには今更悔やんでも仕方が無いが、それでも、子供が苦しむ理由に私が多いに関わっているこの事実は、少し堪える。
「あなたも一緒に、海に出る?」
だからこそ、ほんの少しの可能性の提示をしたくなった。
本当に人狼が船に乗るとなれば、誰よりも困るのは自分なのにと自嘲しながらも、手を差し出さずにはいられなかった。
「え……」
「あなたが一緒に来たいと言うなら、ローの説得はするわ」
「僕は…」
「あぁ、こんな所に居たのかい?」
突然何処からともなく聞こえた声に、全身から血の気がサッと引いたのを感じた。
いつの間にか草葉に隠れる私たちを、虚ろな目で見下ろしていた神父が目に入り、咄嗟にルドルフを背中に庇う。
「さぁ帰ろう」
「私の帰る場所はハートの海賊団の潜水艇でしてよ。あそこ以外に帰る気なんて更々ないわ」
「なら仕方ない」
呟いた神父は徐に懐に手をいれ、小さな瓶を取り出す。透明な瓶には液体が入ってるらしく、小さくチャプンと水音が聞こえた。
「聖水ってしってるかい?」
「穢れを払う儀式用の水でしょう?…私の大嫌いな」
「ついでに言うとワーウルフもこれが嫌いな様だ。分かってくれ、これも、君を守るためなんだ」
そう言いながら神父は瓶の蓋をゆっくりと捻りだす。
私の場合、聖水を浴びれば肌が溶けだすが、ルドルフの場合はどうなのだろう。
兎に角あれをこちら側に振りかけられれば、二人とも危険という事に違いはない。
神父の戦闘は素人といった隙だらけの今でさえ、銀の弾丸に蝕まれたこの身体では全く太刀打ちが出来そうになかった。
ルドルフも今まで信頼していた相手に、手は出せないのだろう。背後から今にも泣き出しそうな、小さな呻き声が聞こえた。
このままでは、神父が死ぬまで私は虐げられた上のこの島暮らしだろうか。
人の一生はひどく短い。そうなったとして私には一瞬の出来事だ。
きっと二十年程前なら時間は幾らでもあるからと、そうやって妥協してしまっただろう。
けれど私ではなく、私を大切に想ってくれている人の一生は短い。
だからこそ、妥協はしない。
なんとか気力を振り絞り、神父の瓶を持つ手に向けて足を振り上げようとしたその時。
「シャンブルズ」
神父の手の内に握られた瓶は石に早変わりし、ほんの少しの離れた場所からパリン、と瓶が割れたであろう音がした。
誰よりも聞き慣れたテノールの声に、幾度となく聞いた言葉。
あまりのタイミングの良さに、場違いにも思わず吹き出してしまいそうだった。