もう構うなとばかりに、ローは船員たちを船内へと促し、ガランとした甲板には私とローの二人だけだ。
私も入れとは言われたものの、今回の騒ぎの原因は明らかに私である事から躊躇われ、まだここにとどまっている。
相変わらず神父は隣の船の甲板でわめいている。恐らく跳躍力もかなりのものであろう人狼の少年に、潜水艇に運べと言わないのは、此方に危害を加える気はないというアピールなのだろうか。何にしろ戻って来ないのはありがたい。
さてこれからどうしたものかと、二人同時にため息を零したときだった。
相変わらず求愛とも取れる言葉を吐き続けていた神父から、先程までとは違う、問いかけを口にする。
「君は君の事をどれくらい把握している?」
「…………」
「君の身体について、先祖が調べた記録がうちにあるんだ」
「…っ!?」
「それを渡していい。その代わり、明日一日私と付き合ってくれないか?」
正直魅力的な話しだった。
私は吸血鬼は吸血鬼でも、元々は人間としての生を終えた後の死体であり、それが死後数百年に、何故か吸血鬼として目覚める事となった。
生前に吸血鬼などと想像上だけの生物と思っていた者に、出会った覚えはない。
いつの間にか種族が変わり、いつの間にか時代も変わり、そしていつの間にか故郷を遠く離れていた。
つまり私は、私について何も知らないに等しい。何百年とこの体と付き合ってきたが、上手く付き合うことはできても、誰も知らない生体については知りようがない。
飛躍的に上がった身体能力の代わりに、日光や十字架など身体に影響を及ぼすほど苦手なものも多いに増えた。などとわかる範囲は非常に狭い。
そんな自分の身体について、情報があるならば、それは当然手に入れたい。
彼の言う資料とやらが本当にあるかどうかは分からない。しかし、ルーナと書かれた棺を知っているからには、持っている可能性は高い。
しかしその資料が欲しいとなると、私はまだあと一日この島にいなくてはならない。だがこの船は明朝にはログもたまり、島を出る予定だ。
そして針路を決めるのは私ではない。
私は静かにローを見上げた。
「先にお行きなさいな。一日あの人に付き合うわ。後でビブルカードを使って、必ず追いつきましてよ」
「……」
「ここでお別れ、なんて流石に言えないから、帰りを待っていてくれる?」
声をできるだけ柔らかくし、話しかけながら彼の頬に手を伸ばし、そっと触れて首を少しかしげて微笑む。
ほんの少し会えないだけ。必ず直ぐにここに戻ってくると想いを込めて。
「大丈夫、いざとなったら盗んで逃げ…」
「なあ、……」
「なんでして?」
言葉を途切れさせ、ほんの数秒お互いの目を見つめあっていたが、ふいにローは私と同じように頬に手をそっと触れると、そのまま遠慮なく私の頬を摘まんだ。
「な、なにひゅるの」
摘ままれたままで言葉が上手く話せないながらに抗議する。
するとローはアッサリとその手を離し、私と同じようにただ頬に手をそっと触れさせた。
「それで、おれが納得すると思うのか?」
「逆に、どうして出来ないの?たった一日よ?直ぐに追いつけるわ」
「その物言いは、親が子供に言い聞かせるときのもんだろ」
はたと気づき口を噤む。どうやら私は選ぶ言葉と、これから取るべき行動を間違えたようだ。
今の自分の発言を振り返れば、ローを子供の頃から見てきた故の言動の癖、ロー曰く親が子供に言い聞かせる物言いが、確かに完全に露わになっていた。これではローが納得するはずがない。彼はもう、子供ではないのだから。
暫し考える為に、また黙ったローをじっと見つめる。
何か言いたい事があるが、何かが邪魔をして言葉にする事を躊躇っている、といった顔だ。
この場合その何かは、男として、大人として、そして船長としてのプライド、と言ったところだろうか。
子供の頃のような我が儘を言うわけにはいかない。形振りは構わなければいけない。
尊重するのは自分の意思だけではいられない。
ならば、ローの思う言葉を紡げる状況を作るのが、彼の女としての役目だろう。
「ねぇ、ロー」
「何だ」
「これは私の問題よ。巻き込む訳にはいかない」
「………」
「だとしても、それでも、良いと言ってくれるなら、一緒に残ってくれれば、心強いのだけれど」
周りから見ればこれはきっと、回りくどい上に奇妙な会話だったに違いない。
それでも、ローとの距離を図りかねても、間違えたくない私にとっては、まず思う事を話してから正すのが、一番手っ取り早いのだ。
「初めから、そう言やいい」
「癖ってなかなか抜け切らないのよね。私の頭の片隅では、貴方はまだ守るべき子供なのかしら」
「昔は関係ねぇ。今はおれがお前の庇護者だってことを忘れるな」
「庇護者、なんてローから程遠そうな言葉なのにね」
クスクスとほんの少し笑えば、また無遠慮に頬を抓られる。今度は先程とは違い、それなりに痛かった事に思わず顔を顰め、解こうと彼の手を掴もうとした。しかし彼の手はするりと解かれ、私の横を通り過ぎて欄干の下を覗き、そこにいるであろう神父に呼びかけた。
ヒリヒリと痛む頬を労わるために、手で包むように頬をさすりながらその背中を眺める。
「明日半日だけの条件だ。それが聞けねえなら今直ぐにでも船を出す」
「何それ聞きてなくてよ」
「黙ってろ」
「………」
「分かった、半日で良い!また明日迎えに行くから、それまでにいなくならないでくれ!」
「あら…?」
拍子抜けするくらいすんなりと交渉は通り、神父が何度か念を押してから、船内へと入るであろうドアの開閉する音が聞こえた。
それを見送ったローが欄干のそばから、私の隣へと戻ってくる。
「隣に停泊するようだな」
「あの船首像が近くにあるだけで気分悪いのに…帰らないかしら」
「なら交渉決裂してもう船を出すか?」
「貴方それ、案外冗談でもないでしょう?」
図星とばかりにニヤリと、悪どい笑みを私に向ける彼に、思わず一つ大きなため息が出た。
「一晩くらいはなんてことなくてよ。出さないでちょうだい」
「分かってる」
「それに、明日はあの聖職者とデートよ。多少だるいのにも慣れておかないと…」
「…、」
私の名前を小さく呟いたローは、私の顎をついと掴むと、彼と目が合うように上を向けさせられる。
どうしたのかと、彼の目をじっと見返せば、ゆっくりと手が離され、フワリと私を包みこむように彼の両手が私の背に回された。
余りにも急だったので、少し驚いたが、直ぐに抱きしめ返し彼の胸に顔を埋める。
「」
「ん…?」
「お前はおれのものだ」
「当然でしょう?それでも、行くのに反対しないのは貴方よ」
「反対出来ねぇ事を分かってやるのがお前だ」
全くもって彼の言う通りだ。私が本当にしたい事は、ローは必ず反対しないという事を重々承知している。その上で実行しようとする。だがそれは逆もまたしかりだ。
随分と年上の私を対等、もしくは庇護するべき相手として扱おうと、ローは分かりやすく「包容力のある器の大きな大人の男」であろとうする。
そして私はそれを利用する。自覚済みの性根の悪さだ。
ただ、それでも。
「どれだけ振り回しても、どれだけ利用しても、貴方が必要で離れられないのは私の方よ。何も心配しないで」
「…当然だろう」
「ふふ…そうね」
「好きなように振る舞えばいい。だが頼れ。お前も、心配するな」
「…ありがと」