船と街を往復する道が数通りある事は、この島にたどり着き数日のローも確認済みである。そのなかで行きは海岸沿いを進む道を選び、帰りである今は、あの大きな邸の前を通る道筋を選んだ。
行にその道を選ばなかったのは、先に行ってしまえばの気晴らしに出たはずなのにそうならなくなってしまうだろうと考えたからだ。
そして今邸の方向に進み出したのは、彼女が何か思い出さないかを期待したからである。
大き過ぎる邸は相変わらず距離感が狂うほどに大きく、まだそれなりに遠いであろうが、随分と近く感じる。
「あの…こっちじゃないと、だめ?」
「…何か不都合があるのか?」
「そういうわけじゃ、…ないけど……」
押し黙ったはローと繋ぐ手を少し強く握り俯いてしまい、足取りも先程よりどこか重そうだ。
意地の悪い聞き方だったなとローは内心独りごちる。邸に不安を感じているだろうに、それでも一度近づかせてみるべきだと、この道を進むために、不都合などという言葉を使った。
彼女が邸であった事を思い出さずとも、未だ何処の誰とも分からぬエルドラドは接触を測ってくるかもしれない。
周囲に警戒を怠る事なくローはの手を引きひたすらに前へと進む。
記憶を失ってから口数が少なくなってしまっただが、さらに口数が減ってしまった今、彼らの間に会話は無い。晴れ渡る空の下、吹き抜ける爽やかな風とは裏腹に、重い空気の漂う中無言のまま歩みを進める。
そして数分歩き続けようやく邸が目の前に迫り、ローが歩みを止め邸を見上げた時、握った手を細かく振るわせたはついにローに訴えた。
「この邸は、嫌です…!早く行きましょう…!」
「…。ここで何があった」
「知らない…私は知らない…!」
取り乱し長い絹糸の様な銀髪をさらさらと大きく靡かせながら、は何度も頭を振る。ギュッと瞑られた目には涙が溜まり、一筋頬へと流れ出す。
「…」
「行きましょう…お願い…」
余りにも弱々しいに、どう接すれば良いのか分からず困惑を覚えたローだが、ここまで懇願するのだからこの場からは兎に角去った方が良いのだろうと、彼女の手を握り直し、一歩踏み出そうとしたその時だった。
背後から妙なまでに強い眼差しを感じ、反射的にバッと勢いよく視線の差に振り返った。
そうすれば、先日と同じ部屋の窓から、先日と同様に二人を見下ろす、ローに危機感を覚えさす様な力の持ち主では到底なさそうな、少女の姿がそこにはあった。
少女はただ、薄っすらと微笑みを浮かべ部屋の中から彼らを見下ろしている。
「な、なに…?」
少女の眼差しが持つ妙な力に違和感を覚えたであろうも戸惑いの色の濃い声を出す。
「…気にすんな。あいつの心臓はおれが所持している。何も出来やしねぇよ」
「心臓!?」
「あぁ、覚えてねぇか。…まぁ、悪魔の実の能力だ。物理的にあいつの心臓をいただいた、とでも言うべきか?」
「な…!?」
目を見開き唖然とするは、象牙色をした色素のうすい顔を真っ青に染める。
叱責の念を込めてローを見つめるその表情に、女好きなのは変わらないのか?とローはどこか的外れな考えていると、ここ数日数度経験した、背後に急に人の気配が現れるのを感じ取り、の腰を抱くと大きく飛び退いた。
「そう何度も背後は取られねぇよ」
「………」
またしても急に現れた執事は、先日までの無表情とは違い、怒気を孕ませた視線をローに送り続ける。
「余裕がなさそうだな。…狙いはか」
「………」
先日と今、違いはローの隣にがいるか否か。それだけだ。
執事は沈黙を守るが、それは肯定を示す以外の意味は持たない。
主の心臓を奪われても、表情を崩さなかった男が、にここまでの執着をみせる。
存外ローにとっては、珍しくは無いこの現象に、さほど驚きはしなかったが、通常その男共を完膚なきまで打ちのめすはずの彼女は、ローに縋り付きガタガタと震えるだけだ。
「あの女の心臓を、捻り潰して欲しいのか?」
「…貴方は、何も気づかないのですね」
軽蔑の感情の込められた声色で吐き出された言葉に、邸から見下ろす少女も同じ言葉を零していた事を思い出す。
確信をつかない言葉しか選ばない二人にただ苛立ちが募る。
「数時間にして契約は破棄の様だな」
少女の心臓を取り出そうとの腰から手を離そうとすると、離された腕をはひしと抱きしめた。
「お願い…!船に…!船に…!!」
尋常ではない状態のに、戸惑いと困惑と、そして一つの疑惑がローの脳内を埋め尽くす。
目の前の執事を憎々し気にギッと睨みつけ、不本意ではあるがこの場を一刻も早く去る為にローは能力を展開し、最高速度で船へと移動を始めた。
そして目まぐるしく過ぎ去る景色のなか、執事の不可解な行動を思い出す。
気配もなく背後から現れる。主であるはずの少女を尊重しているようすがない。そしてへの執着。
もう一つ思い出すのは少女の発言だ。彼女はエルドラドを「彼」と呼んだ。つまりエルドラドは男性である可能性が高い。
「という事は、あいつか…?」
呟いた独り言は、誰に聞かれる事もなく流れる風の中に消えた。